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第三編 東京専門学校時代後期

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第十二章 学苑と二大事件

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 本学苑の講師および学生は、内に建学の精神を守りながら孜々として勉学にいそしんだが、外は社会全般の事相に目を向けることも忘れなかった。政治を志す者の不断の心掛けとはいえ、その胸臆には絶えず公憤、義俠というようなものが脈を打っていたのである。それが一度何かの事件に際会すると、奔流が一時に堰を切った如くにあふれ出し、学苑挙げての公憤となって渦を巻いた。それは枚挙に遑がないほど、学苑外に波及し、遂に世人の目をそば立たしめ、輿論を席巻することさえあった。その良き例として今ここに大津事件と鉱毒問題とを取り上げる。

一 大津事件

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 大津事件はまた湖南事件とも言う。琵琶湖の南に起ったためである。

 明治二十四年五月十一日、当時来日中のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチと、その甥に当るギリシア皇子ジョルジュとが、多数の随員を従え、琵琶湖南岸を船遊の後、滋賀県庁に入って午餐をしたためた。それから県庁内の陳列場で民芸品数点を買い上げ、至極満足の態で人力車を連ね、京都河原町の常盤ホテルへ帰還の途中、大津町大字下小唐崎町、津田岩次郎宅前に来かかった時、沿道の警備を担当していた津田三蔵巡査が、突然佩剣を抜いて皇太子を襲撃し、山高帽の上から切りつけ、更に一刀を浴せたので、皇太子は声を上げて車から顚落した。犯人はなお追討ちをかけんとしたが、後の車から飛び降りたジョルジュ親王に竹のステッキで打ちすえられ、更に車夫達に押えられて、三名の警官に逮捕された。事件は日露両国の朝野はもとより、世界列国の人心をいたく震駭させた。

 ここで問題となるのは、犯人津田三蔵を如何なる刑に処するかに関する点で、「刑法第二編公益ニ関スル重罪軽罪、第一章皇室ニ対スル罪、第百十六条天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」によって犯人に死刑を科せんとする説と、「刑法第三編身体財産ニ対スル重罪軽罪、第一章身体ニ対スル罪、第一節謀殺故殺ノ罪、第二百九十二条予メ謀テ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪ト為シ死刑ニ処ス」および「同第百十二条罪ヲ犯サントシテ已ニ其事ヲ行フト雖モ犯人意外ノ障擬若クハ舛錯ニ因リ未タ遂ケサル時ハ已ニ遂ケタル者ノ刑ニ一等又ハ二等ヲ減ス」によって処断せんとする説とが存在した。

 伊藤博文が前説を援用して、真っ向から極刑論を振りかざし、他の閣僚の判断を狂わしたのは、極度の恐露病に罹っていたためであると言わざるを得ない。更に驚くべきことは、「止ムヲ得ズ戒厳令ヲ発スルモ可ナリ。」とさえ放言している。「戒厳令云々」に至っては全く噴飯もので、大審院長児島惟謙に「若し夫れ、戒厳令を布かんというに至りては、戒厳令の性質を解せざる事甚だしきのみならず、却て世界の嘲笑を購うに過ぎざるのみ。」(平凡社「東洋文庫」版『大津事件日誌』二七頁)と歎かせている。

 当面の責任者として、外務大臣の青木周蔵が事件処理の交渉に当るのは言うまでもないが、腹背に強い圧力を受け、日ごとに苦汁を啜る彼の心境も分らぬことはない。すなわち殆ど全閣僚からの厳しい眸を背に感じ、「平生我等に対し一種快からざる言語を弄する人物」(平凡社「東洋文庫」版『青木周蔵自伝』二四六頁)たるロシア公使シェヴィッチを向うに回して戦わねばならなかったからである。青木と公使の不仲は外交界でも有名で、林董手記の『後は昔の記』(平凡社「東洋文庫」版二四六頁)や、信夫淳平の『外交側面史談』(一〇四頁)によると、その主たる原因は閨室間の不和によるものであるという。それはとにかくとして、なお且つ司法当局者、特に大審院判事の間には、「刑法」第百十六条適用反対の声が甚だ強く、仮に青木自身が同じ考えを持っていたとしても、当局の一員としてはこれを公言して同調する自由がなかっただけに、その苦慮懊悩が更に深かったのである。事件後、山県に語ったところによると、青木は伊藤の強要によりロシア公使に対し、閣下から兇漢死刑の要求を我が政府に出してくれたなら、外交上の必要ということで死刑に処することができる、という内容の交渉を持ちかけたという(『青木周蔵自伝』二六二頁)。青木にとっては、引責辞職を賭けた、まさに背水の布石であったのである。こうした政府当局の強硬な極刑論に対し、あくまで後説を堅持して一歩も譲らなかったのは、後世「護法の鬼」と称えられた児島惟謙で、彼の不易の信念は『大津事件日誌』の冒頭に掲げられた数行からでも窺知することができる。

 児島の正論は、いくばくもなく司法部内の大勢をその方向に決定づけるかの傾向が見え始めたので、彼はいよいよ護憲の決心を固めた。十八、九日の両日は、彼にとって実に激闘苦悶に終始した。そして遂に「予は唯一身を犠牲にして、邁進敢行、此難局に処せんとす。」(『大津事件日誌』五七頁)と決意し、十九日午後四時、松方総理および山田法相に縷々二千四百字に及ぶ意見書を提出し、その夜堤裁判長以下、中、土師、安居、高野の五判事とともに、新橋駅を発って西下した。因に井上、木下の二判事は、一足遅れ翌二十日に離京している。

 児島が着京したのは二十日の午後であったが、その日から最初の公判予定日である二十五日までの五日間、三好退蔵検事総長と会い、或いは堤判事以下いわゆる極刑論者に大義名分を説いて善処を促し、または西下の理由とした大阪控訴院監察のため下阪して同院長北畠治房と会談するなど、不眠不休の活動を続けた。殊に児島の処論を封ずるため、公判期日を二十七日に延期させて西下して来た山田法相、西郷内相と激論して物別れに終るという一幕もあって、舞台はいよいよ大詰を迎えたのである。その結果は彼の信念通りの判決が下され、被告津田三蔵は普通人に対する謀殺未遂罪を以て処断され、無期徒刑が科せられた。児島は、この審判に対し生命を賭けてその成功を祈念していたものの、或いはという一抹の不安もあったろうから、この名判決に接した時の喜びは覆うべくもなく、直ちに親友穂積陳重に電報を打ち、「カチヲセイスルニイタレリアンシンアレ〔勝を制するに至れり安心あれ〕」と報じている。

 以上で「大津事件」なるものの概略が明らかになったと思うが、問題はこれに対する我が国内外の反響ならびにその対策が如何になされたかである。

 五月十一日、すなわち兇変の日の午後四時、滋賀県知事から「露国皇太子殿下、滋賀県大津に於て、同県巡査津田三蔵の為に傷けらる。」との飛電が、宮内省と内務省に届いた。この兇報を受け取った関係閣僚は、事のあまりにも重大なるに驚き、松方首相をはじめ、西郷内務、青木外務、山田司法、樺山海軍、陸奥農商務の各大臣および大木枢密院議長、黒田同顧問官などが直ちに参内して御前会議を開いて鳩首凝議した結果、同夜九時、取敢えず陸軍軍医総監橋本綱常、帝国大学雇の医師スクリハーを青木外相、西郷内相とともに西下させ、天皇もまた北白川宮能久親王をお見舞として差遣された。一方侍従岩倉具定と、箱根の伊藤博文は相携えて宮中に入った。越えて翌十二日午前六時三十八分、天皇は新橋駅発の特別列車で京都へ行幸になった。そして親しく京都の旅荘に皇太子をお見舞になり、太子が爾余の日程を取りやめ、十九日神戸出港のアゾワ号に乗艦、帰国の途に上られる時には、更に同地に行幸され、慰問と訣別の挨拶をされるほどであった。このように天皇御自身が最高の礼を尽されたのであるから、内閣閣僚をはじめ要路の高官は言うまでもなく、各種団体の長も踵を接して京都に集まり、皇太子お見舞の衷情を披瀝した。

 これに対して本校が採った態度について、『同攻会雑誌』第三号(明治二十四年五月発行)に次のような見舞文が載っている。

大日本帝国東京専門学校職員生徒一同、我君民ノ愛敬尊重スル露国皇太子殿下ノ御遭難ヲ聞キ驚愕ノ至リニ堪エズ、痛歎窮リ無シ。速ニ本復アラセラレムコトヲ祈リ、茲ニ惣代ヲ左右ニ致シテ微衷ヲ表ス。 (二六頁)

そしてこの見舞状を講師家永豊吉が本校総代となって携帯して、十四日神戸に向け出発した。なお私学の同友たる慶応義塾もまた、塾長小幡篤次郎および教員学生一同の名を以て見舞状を作り、総代として岩本述太郎を選び現地に送っている。我が学苑の見舞に対しては、東京府知事蜂須賀茂韶を介して、

露国皇太子殿下御遭難ノ際書翰ヲ以テ御見舞申上候段、同殿下ニ於テ御満足ニ思召ス旨本官ヨリ申達スベキ様、京都出張ノ西郷内務大臣ヨリ電報有之候条、此旨伝達ス。 (『同攻会雑誌』明治二十四年七月発行第五号 二九頁)

という丁寧な挨拶状があった。

 ところで、この事件の真相が果して十分に外国に伝わっているかどうか、甚だ疑わしいものがある。試みに外字新聞の記事を見ると、『ヘラルド』紙に次のような記事が掲載されているという。

今回の事変は、日本に取りて誠に悲しむべき事変と謂はざるべからず。仮令ひ露国は日本の説明を承諾するとするも、日本の海外諸国に対する声価は之れが影響を受け、条約改正に大関係を及ぼすならん。外国人は、日本に於て斯く断へず大臣を虐殺せんとし、或は外国人に危害を加へんとする事あるを見ては、日本の文明は小部分に行はれるのみにて、外国人の生命財産を挙げて日本の法権に託するは危険なりとの説に勢力を添へしむるならん。 (『東京日日新聞』 五月十四日号)

また『ガゼット』紙は、「日本には攘夷の思想今猶消滅せず。過る一年間日本人の大部分は其の運動を現し始めたり。」(同前)と言い、或いは『メール』紙は、「然れども血を以て其国の歴史を汚し、並に国内人心激昻するに際し、人民動もすれば刀剣に訴へんとすること、日本の如きは殆んど他に其の例あるを知らず。要するに今回の事の如き、世人は兇行者の精神惑乱の結果なりと云はずして旧時の攘夷の精神再び発生したりと云うべし。」(『毎日新聞』五月十三日号)と言っている。

 これでは如何に弁解しても、全国民が妖怪変化の輩とまでは言われなくとも、愚昧の徒に過ぎないことになる。そして犯人津田はそれを代表した者であり、欧米人に対する生命の保障は期して得難く、まことに情ない限りである。勿論この事件に対して国民は十分反省し謹慎の意も表しているが、罪は罪としても誤解だけは何としても解かなければならない。それは政府の要路者が当然なすべきであるが、国民のうち志ある者もまた真相を明らかにし、欧米各国民の良識に訴えんとする試みがあって然るべきである。

 そしてこの国民の謝罪の現れの第一号が、実に我が学苑教職員、生徒、校友をうって一丸とする「大津事件の真相を海外に訴える」企てであった。このことが最初に報道されたのは、二十四年六月発行の『同攻会雑誌』第四号で、その全文を次に掲げておく。

同校友諸氏は、曩きに大津事変の起るや、有志者相会し、此際徒らに慷慨するも益する処なし。何にか応分の企てもがなと、種々評議を凝らせし末、遂に右事変の顚末を叙して欧米各国の重なる新聞に投じ、事実の謬伝を禦がん事に一決し、直に家永豊吉、山沢俊夫、黒川九馬、斎藤和太郎、賀来昌之、有吉玉治、永島富三郎、田川大吉郎の諸氏を委員に挙げて各国文の起草、並に各国新聞へ紹介を依頼することに向て奔走尽力せしめしに、先づ講師米国博士家永豊吉氏英文を起草し、講師仏国博士本野一郎氏之を仏文に翻訳し、而して独、墺両国は、校友墺国博士岸小三郎氏に依嘱し、且つ倫敦タイムス新聞の紹介を、同新聞通信員パーマー並にメイル記者ブリンクリーの諸氏に依頼して承諾を得る等、夫々準備完結を告げ、此程英、米、仏、独、墺の五国に向て十数通の原稿を郵送したりと云ふ。 (二八―二九頁)

同誌は月刊毎月十五日発行で、学苑教職員生徒一同の見舞文は五月十五日発行の第三号に載せられたから、この有志会は少くともそれ以後に催されたものに相違なく、九月十五日発行の同誌第七号には、その英文と翻訳文とが掲載されているが、紙面の都合上か、三ヵ月も遅れて載せられたもので、前掲の文中末尾に記された如く、五月下旬か六月上旬にはそれぞれの手続を経て、当該新聞に送付されたと見るべきであろう。なお委員会は説文の大綱を論議し、文案は起草者たる家永豊吉に一任し、家永講師は最初から英文で書いたものと考えられる。

 ところで我が学苑を代表して皇太子を慰問し、またこの論文を起草するほどの活躍をした家永豊吉の履歴が、あまり広く知られていないのは甚だ遺憾である。すなわち彼は明治二十二、三年頃、米国メリーランド州ボルチモアにあるジョンズ・ホプキンズ大学を卒業してhP・Dの学位を得、二十三年東京専門学校講師となり、二十五年には前述の如く巡回講話を提唱し、二十六年以降は専修英語科で教えるとともに中古史を担当している。三十三年台湾に渡り、三十八年シカゴ大学に奉職し、その後在職のまま一時帰国し芝区三田に居住したことがある。再び渡米してニューヨークに住んだが、残念ながら昭和十三年以後の消息は不明である。大学卒業より推算すれば、この時は七十歳くらいに当るから、或いはこれが晩年でなかったろうか。

 さてこの反響は意外に大きく、これを掲載したイギリスの『タイムズ』、アメリカの『ヘラルド・トリビューン』、ボルチモア『サン』、フランスの『フィガロ』、ドイツの『ノイエ・ツァイトゥング』等は、それぞれこの企てを讃美して、掲載新聞を校友会委員に送って来た。また一般の新聞もこれを転載して読者の興味を惹き、更にこれに刺戟された『時事新報』、『報知新聞』、『東京日日新聞』、『読売新聞』等もその訳文を報ずる有様であった。この英文ならびに訳文は、先にも述べた如く『同攻会雑誌』第七号(明治二十四年九月発行)に載せられている。相当長文であるが、我が学苑が夙に全世界的な視野を持ち、公明正大で是非曲直を正すためには正々堂々と論陣を張った、その例証の一つとして、塩沢昌貞の訳文をここに掲載しておく。

記者足下 我国民中の一人、露国皇太子に対し狼藉に及びたる者あるが為に、我々全国民が其不名誉の責を荷はざる可らざるに至りたるは、我々の最も悲歎に堪へざる所なり。抑も我日本は、開闢二千余年の間、或は鮮血の其史乗を汚したることなきに非ざるも、未だ曾て一たびも、我天皇陛下若しくは皇族に対して狼藉に及びたるものなく、我々臣民の君に忠節ならざる可らざるは極り切りたることなれば、外国の帝室皇族に対しても亦、此精神を以て尊敬を尽すの外余念なき所なるに、嗚呼、如何なれば此明治の年代に於て一人の政治的狂漢を出し、剣を外国皇子に加ふるの亡状を見るに至りたるか。実に我国民の名誉を傷けたるものなり、無類清浄なる歴史に汚点を加へたるものなり。去りながら、既に日本人が日本国内に於て為したることなれば、其責任の日本人に帰するは止むを得ざる次第なれども、或は遠き西洋諸国にては、其一端の報に接して過大誇張なる評判を生じ、啻に事実無根の事迄も言伝へ語り伝へて事実とするのみならず、日本に不利なる感情を惹起すべき恐れあるが故に、我々東京専門学校講師、得業生及び校友は、聡明なる欧米諸国の公衆に向つて、此憎む可き狼藉を為したるものは只一人なる事、而して彼は政治上の狂漢なる事、日本全国民は上、天皇陛下より、下、走卒に至るまで、一人として最も深く此変事を悲まざるものなき事、皇太子を歓迎せんが為に用意したる仕度は、外国の君主皇族に対して、我日本人の敬意友情を知るに足る可き無上の証拠なる事等を訴へ、事実に注意せんことを請ふものなり。

五月四日を以て露国皇太子「ニコラス」親王は、希臘皇子「ゼオージ」親王と共に長崎へ上陸して、同港人民の熱心鄭重なる歓待を受けられ、翌日鹿児島へ向つて出帆し、同所に於て島津公爵の最も好意を尽したる歓迎を受けられ、同九日に「パミアット、アゾア」号は国賓を乗せて神戸へ投錨し、同港の人民も亦同様に誠意を尽して歓待し、其日の午後臨時汽車にて京都へ向て出発せられ、同市民も亦た種々様々の饗応を催して国賓を歓迎し、一点曇りなき好意を表したり。右の如く此時に至るまでは至る処の人民十分満足に歓迎したるを以て、皇太子にも深く日本人民を信憑せられ、一点の心配も抱かるることなく、人力車を駆りて長崎若くは京都の市中をば遊覧旁微行せられ、時としては随行員の一人と見誤られしことさへありし程にて、日本人民に対する振前も天真爛漫毫も隔意なく、至て快活にして先代に名高き彼得大帝も斯くやと思ふ許りなりき。図らずも右の如き皇太子の厚き信憑も、日本人民の心を込めたる好遇も、憎むべき一狂漢の狼藉の為に一朝水泡に属するに至りしは、実に五月十一日と云ふ不幸なる日にぞある。当日国賓は、琵琶湖及び其近辺の遊覧を了りて大津町通行中、小唐崎町に至るの際、道筋警衛の為に出張せる巡査の一人、突然抜剣にて背後より躍り出、皇太子目掛て打掛り遂に頭辺に二ヶ所の疵を負せたり。皇太子は人力車の梶棒低ると同時に飛躍して車を下り、走て之を避けたり。狼藉者なる津田三蔵は尚追躡せんとしたるも、皇太子の車夫の一人三蔵を拉して之を倒し、同時に他の一人の車夫は、狼藉者の剣を奪取りて二箇の重傷を蒙らせ、其場に於て直に之を捕縛せり。此一行の案内者たりし沖知事は、此変事を見るや直に車上より飛降して、負傷せる皇子をば近接の一店へ導き、直に手当を施し、同日皇太子には直に京都へ帰着せられたり。扨其疵も至て軽微にして、医師も二週間以内に全癒すべきことを明言するを得たるは、実に不幸中の至幸、此上もなきことなりき。

此凶変の警報伝はるや、全国為に震憾し、最初は何人も之を信用すること能はざりし程にて、特に天皇陛下には痛く宸襟を悩し奉り、即夜左の如き詔勅を発せられたり。

今次朕が敬愛する露国皇太子殿下来遊せらるるに付、朕及朕が政府及臣民は、国賓の大礼を以て歓迎せんとするに際し、図らざりき、途大津に於て難に遭はせらるるの警報に接したるは、殊に朕が痛惜に勝へざる所なり。亟かに暴行者を処罰し善隣の交誼を毀傷することなく以て朕が意を休せしめよ。

天皇陛下には其電報の達するや、直に皇族北白河宮に仰せて侍医二名を随はしめ、皇太子御見舞として派遣し、内務大臣及び外務大臣も亦夜汽車にて京都へ出発せり。而して天皇陛下には翌朝六時十分に親ら御見舞として発車あらせられぬ。是れ洵に皇朝古来未曾有の手厚き事例なり。其全国民が彼兇漢に対し憤怒激昂したるの様、或は其痛歎漸惜の情の如きは、到底筆紙の能く描写し得可き所に非ず、只想像に任すより外なきなり。全国四方八方より、負傷せられたる親王に向て雲集せる慰問の電報と、見舞の書信とは、僅に二日を超ざるに二万余通の多きに達したり。十二日には諸学校、商会並に戯場及び其他の遊戯場に至るまで、多くは臨時休業して痛惜の意を表し、又帝国議会は勿論、各府県会及び東京並に各地方に於ける重立たる諸会合は、其政治、教育、文学、理学又は商業等の類を論ぜず、殆ど尽く其総代を皇太子の許に派遣して痛惜慰問の情を述べ、彼三十余年前までは神仏に向て攘夷の祈禱を為したる神官僧侶も、今や外国皇太子の為に速に快癒あらんことを祈らざるはなかりき。国内の諸新聞紙の如きも、其平生如何なる党派に属し、如何なる主義を取るを論ぜず、異口同音一斉に飽まで歎惜の情を表して申開きの辞を述べざるはなく、紙面限りあるを以て一々茲に之を摘記する能はざるは実に遺憾の事なり。外字新聞ジャパンメールの如きは記して曰へり、「其各級各種の人民より表したる痛惜の情、実に切至にして一般に行渡り、且つ尽く誠意より発したるが如き、其れ何物か能く之に及ぶものあらんや」と。

十三日に皇太子には、露国父皇の命に依り神戸港内の艦隊へ帰艦することとなり、十九日に更に聖波得堡よりの訓令に従い、浦潮斯得に向つて帰国の途に就かれたり。却説、津田三蔵の罪悪たる実に重大なるを以て、検事総長は我皇室へ対し危害を加へ奉りたると同一の刑罰、即ち死刑を以つて彼を処罰せんことを請求したるも、我刑法中には外国皇族に対する犯罪に関する条項なきを以て、大審院は政府及公衆の或部分の切望に反して、通常の謀殺犯を以て之を論じ、我刑法第二百九十二条、第百十二条及第百十三条第一項に拠り、三蔵をば無期徒刑に宣告したり。以上は即ちニコラス親王の来遊及大津事件の大略なり。四千万人に余る人民の事なれば、或は時として妄迷狂乱、固陋の一守旧漢を出すことあるは、蓋し実に避く可らざるなり。津田三蔵の如きも亦右の如き妄迷固陋の一守旧漢にして、露国皇太子来遊の目的は、畢竟日本の内情を偵察するの陰謀に在りなど、一、二新聞紙上に伝はれる浮説の為に動され、且尚客遊の皇太子が直に東京なる宮城に参せずして先づ鹿児島及京都を訪たるは、実に日本の主権者を蔑視せんとしたるの挙に非ずやなどの猜疑心に激せられ、遂に国民の最も親愛尊敬する大賓をば、却て国民の讐敵と誤想し、其生命を危くするを以て愛国の所行と心得たりし也。日本の臣民中に一人たりとも斯の如き謬想を抱く者ありしは、実に歎ず可き悲む可き事なり。去りながら欧米各国の公衆にして、彼大津事件を以て我政府及我法律が日本に居住し、若しくは旅行する外国人に与ふる所の安全の標準と為すに至ては、其誤謬も亦甚しく且つ苛酷なりと云はざる可らず。大津事件の為に全国民の惹き起せる同愛心の広くして深く、且つ至誠なるより推して、我々人民の大多数が、外国人に対する友愛なる好情を量るこそ、実に公正適実と云ふ可けれ。去れば聡明なる欧米諸国の公衆が、日本は政治上、法律上、教育上、社交上、宗教上、経済上及産業上非常なる大改良を施して世界の讃歎を博してより以来、或は時として暫時停歩することなきに非ざるも、西洋諸国と対等の地位に達するまでは勇進邁往決して一歩も退かざる事、及び是故に日本は西洋諸国の好意と友誼とを希望して已まざる事とを能く了解せられんこと我々の深く希望に堪ざる所なり。 頓首敬具

明治廿四年西暦一千八百九十一年六月十二日

日本東京に於て 東京専門学校校友会委員長 家永豊吉

(二三―二七頁)

 まことに終始一貫した論説を展開し、簡潔な文章ながら言うべきところを言い尽して完全なるものがある。そうしてまたここには早稲田精神が深く刻み込まれ、何らの粉飾もなく具現されているのを見ることができ、更に大隈が身を以て実行した国民外交の粋を感得することができるだろう。一朝事あれば、直ちにその善悪を判断し、これを良しと見れば何のためらいもなく敢然実行に移す――これが早稲田精神であり、我が学苑が常に採って来た不易の態度である。謝すべき点は謝し、深甚なる遺憾の意を国の内外に披瀝し、そして理非曲直を明らかにしている点、これこそ早稲田精神を巧まずして発揮した美挙だと考える。それ故に欧米の各新聞も進んでこれを掲載し、また我が校友会に対し、その立派な着想を讃美した文章を記しているのではなかろうか。

二 足尾鉱毒事件

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 明治三十二年十二月九日、東京専門学校大演説会において、田中正造は「鉱毒論」という演題で足尾問題につき延延二時間に亘る長広舌を揮い、その年二月の擬国会で既に顔見知りとなった学生その他の聴衆に深い感銘を与えた。彼は栃木県選出議員として第一回総選挙に当選して以来、連続六回当選、十五回議会出席の記録を誇るものであった。二十七年三月に立憲改進党候補として当選し、党首大隈重信と特に親しい仲となったが、本校初代校長大隈英麿夫妻とは、大隈重信以上に親しかった模様である。

 田中は天保十二年十一月三日、野州(栃木県)安蘇郡小中村の名主富造の子として生を享け、安政六年十八歳で名主の職を父から受け継いだ。やがて維新の大詔が下り、正造は名主の地位を失ったので官吏を志願し、江刺県(現在岩手県の一部)に赴任したが、この後、自由民権運動に参加して、十三年栃木県会議員となった。二十三年七月一日、第一回総選挙が行われるに際し、栃木県第三区から立候補し、初当選の栄冠を獲得してから、足掛け十年間議席を占めて国政に参画したが、二十三年秋頃から足尾銅山鉱毒問題が新聞紙上を賑わすようになり、鉱害除去の闘争に彼の生命を賭けることになった。

 では鉱毒問題とは何か。それを述べる前に、この足尾銅山を経営した古河市兵衛のことについて一瞥を加えておこう。市兵衛は、天保三年、京都岡崎村に生れ、本姓を木村、幼名を巳之助と言い、のち改めて幸助と称した。十八歳の時叔父利助を頼って盛岡に到り、鴻池支店に入り生糸の売買に従った。たまたま京都小野組の番頭古河太郎左衛門に見込まれて、同家の養子となり、市兵衛と改名した。明治七年彼は主家である小野組の破綻によって裸一貫となったが、生来計算高かった彼は、主家に仕えている間も常に一攫千金を夢み、早くから鉱山業に目をつけていた。一山当てれば一朝にして万金を得、失敗すれば倒産も免れない大きな賭勝負である。彼は鉱山家として有名な岡田平蔵に教えを受けるとともに、財界人の傑物渋沢栄一、政治家陸奥宗光とも交誼を通じて稼業の準備を整え、また陸奥とは縁戚にもなった。十年、彼は足尾銅山をその所有者添田欣一から買い取った。この山は、慶長年間から掘り始めた由緒ある銅山であるが、十四年の暮、通称鷹の巣に有望な鉱脈を発見し、更に十七年五月には本口坑に一大銅脈を見つけた。かくして古河が初めて足尾銅山の採掘を開始した明治十年度の生産高は、僅かに四六・七三一キログラムに過ぎなかったが、更に設備改善の結果、二十五年度には、七、四九二・六九三キログラムと、驚くべき躍進を見た。

 しかし、足尾の開発が始まってから、十二年夏には既に渡良瀬川の水流に汚濁が見え始めた。翌十三年には豪雨があって川が氾濫し、流域の田畑が冠水したが、その時の水の色はこれまでのような土色ではなく、その上多数の川魚が白い腹を見せて浮かび上がり、漁民達に不吉な予感さえ覚えさせた。栃木県令藤川為親は、取敢えず渡良瀬川漁獲禁止の訓令を出したが、毎年雨期に入ると河川が氾濫して、汚濁した水は堤防を切って田野に流れ込み、斃死した川魚の数が増すばかりであった。県や流域各市町村の役人達はこのような異状を知りながらも、一片の訓令以外には何らの調査も対策も講じなかった。しかしさすがに報道陣はこれを見逃さず、その惨状を報道した。これまで足利、桐生等の機業地の廃液がこの川に流れ込み、そのため漁獲が減少したものかもしれないと思い込んでいた漁民達も、漸く足尾銅山に対する疑惑の色を濃くして来た。ところが翌年八月未曾有の豪雨が続き、堤防の決壊が相次いで起り、沿岸町村の殆どすべてが流出した毒水と泥土の下に埋没した。農業一本に頼る農民にとってはまさに致命傷であった。しかも、一度汚れた土にはどんな苗も育たなかった。鉱毒の恐ろしさを目の辺りに見て、彼らの疑惑は怒りとなり、その怒りは呪詛にまで発展して行った。遂に二十三年一月二十七日号の『郵便報知新聞』は、初めて「渡良瀬川に鱗族を絶つ」という題名で大々的にその実情を世に訴えた。しかるにその年もまた豪雨のため、栃木・群馬の県境を流れる渡良瀬川の堤防が決壊し、館林以東の各村が泥海に埋没し、異臭漂う惨害を被った。十一月二十六日号の『東京日日新聞』は、「足尾銅山に関する紛紜」と題し、農民達の怒りをこう記している。

足尾銅山鉱場より流れ来る水は渡良瀬川に注入するが、其水質は炭素酸素を含有すること多きを以て、農作物には妨害甚しとて、渡良瀬川に依て灌概の便を受け居る上州山田、新田、邑楽三郡の農民中には、之を農商務大臣に申告して、該鉱業を中止する歎、乃至は鉱場使用の水を他へ漏泄せしむる歟、二者其一に処分を請はんと相談中にて、野州足利、梁田二郡中にも賛成者多く、五郡結合して其筋に上告し、若し聴かれずば法廷へも持出すべき決心の模様ありと云ふ。

 かくして足尾鉱毒問題が世間の視聴を集め始めた時、無名の一学生が、ひそかにこの調査に乗り出していた。その名は左部彦次郎、東京専門学校邦語政治科第三学年の学生である。彼は明治二年十月、東京京橋に生れ、十二年、群馬県利根郡池田村奈良(現沼田市)六十番地、左部宇作の養子となった。養家は代々酒造りを業とし、相当の山林を持っていたようである。後述の川俣事件の予審調書では「明治二十四年ニ東京早稲田ノ専門学校ニ居ル時鉱毒アルコトヲ聞知リ」と述べているから、最上級生時代に鉱毒問題に関心を持つようになったようであるが、或いはそれ以前、帰省の時、所有山林のいくばくかが枯死しているのを目の辺りに見て、本格的に調査に踏み切ったのかもしれない。

 田中正造は二十四年十二月「足尾銅山鉱毒加害の儀に付」との質問書を、農商務大臣陸奥宗光に提出し、同年十二月二十四日および二十五日の二回に亘って、衆議院予算会議で質問演説を行った。不幸にしてこの第二議会は、陸奥農商務相の十分な答弁が得られないまま同月二十五日に解散し、僅かにその答弁が『官報』附録に掲載されたに止まった。しかもそれは、

一、群馬、栃木両県下渡良瀬沿岸の耕地に被害あるは事実なれども、被害の原因確実ならず。

二、右被害の原因に就いては、目下各専門家の試験調査中なり。

三、鉱業人は成し得べき予防を実施し、独、米より粉鉱採聚器を購求して、一層鉱物の流出防止の準備をなせり。

と全くお座なりのもので、何ら政府の誠意が見られないものであった。しかし田中が議会で質問をした日から一ヵ月ほどの後、奇しくも左部にとって生涯忘れられない思い出の日となり、彼をしてますますこの問題に心魂を傾注しようと決心させた出来事があった。すなわち二十五年一月十五日の日付を以て、渡瀬村長小林偵七郎ほか三村長の連名で、被害民が、

義勇ナル正廉ノ士左部彦次郎君ニ謝ス。我々四ケ村堤外地鉱毒ノ害ヲ受タル茲二年アリ。然ルニ君ガ大愛ノ志ヲ以テ刻苦ノ余、功遂ニ明治廿四年十二月廿八日ヲ以テ、鉱毒除害並ニ採鉱事業停止ノ請願書ヲ農商務大臣ニ提出スルニ至レリ。此レ実ニ公共義勇ノ志平素胸中二鬱勃タカヨリ発シタルモノト感謝ニ不堪。被害地所有人民千百有余名代表者トシ、深ク君ガ義心ヲ感謝シ、聊カ冗言ヲ以テ茲ニ鳴謝ス。 (大場美夜子〔左部の娘〕『残照の中で』 一〇一頁)

という、実に誠意真情を吐露した感謝状が彼に贈呈されたからである。左部の健闘努力に対し、感謝の意を表した何がしかの記念品を贈りたかったであろうが、涸渇に瀕した被害民としては、これが精一杯の贈物であったのである。この美挙は、明治二十五年二月発行『同攻会雑誌』第十一号の「近事片々」欄で、「校友左部氏感謝状を受く」と題して逸速く学苑内外に伝えられた。

足尾銅山鉱毒事件に就ては、昨年中より沿岸被害地人民の激動一方ならず、各地其委員を選みて之を調査し、或は請願書を出だせしこと等は夙に世人の知る所なるが、校友左部彦次郎氏(群馬県利根郡池田村)は、過般来私費を以て被害地の模様を調査し、鉱毒除害の請願書を農商務大臣に上申する等、該事件に尽力せしこと少なからずとて、去月下旬同県邑楽郡渡瀬村々長外三村長より被害地人民千百有余名を代表せる感謝状を受けたりと云ふ。 (五四頁)

 左部と田中が、どういうきっかけで結びついたかは不明であるが、両者の紐帯は日を重ねるとともに固くなり、左部は現地で活動を続けながらも、在京日数の多い田中とは絶えず連繋を密にした。たまたま左部が上京した時は、田中の常宿に彼を訪れて、或いは秘策を練り、或いは激論した。また田中が党首大隈に接近する関係で、牛込区早稲田町に仮寓を構えていた時、左部は月余に亘りこの家に逗留していたとも言われている。

 左部のこうした学術的な調査と実際的な行動は、他校、特にキリスト教主義学校の学生達を奮起せしめ、青山学院生で、幼少の頃より田中の家に出入りしていた熱血漢栗原彦三郎は、田中の同意を得て、宗教家、学者、新聞記者を動員して、第一回「足尾鉱毒事件演説会」を、三十年二月二十八日、神田美土代町基督教青年会館で開催した。

 他方、同年三月二日には、足尾銅山鉱毒被害民二千余名が鉱業停止請願運動のため南下したが、途中警官に阻まれ、そのうち八百余名が深夜上京して日比谷ガ原に集結、近衛貴族院議長、鳩山衆議院議長、大隈外相、榎本農商務相を歴訪して陳情せんとしたが、何れも不成功に終ったという事件が発生した。

 ちょうどこの時、第十回通常議会が開催されており、田中は進歩党の代議士として出席し、終始一貫鉱毒問題に取り組み、政府当局に舌弾を放ちその決断を迫った。すなわち、三十年二月二十六日、「公益に有害の鉱業を停止せざる儀に付」との質問書を議会に提出して説明を行い、且つ質問演説をしている。更に三月十五日、十七日の両日には、政府の答弁を促す演説を行っている。

 これに対し漸く政府は腰を上げ、翌十八日付で、「栃木県上都賀郡足尾銅山鉱毒事件は、明治二十三年以来数回の調査に依り、渡良瀬川沿岸地に鉱毒含有の結果を得たり。而して明治二十五年に至り、鉱業人は仲裁人の扱に任じ、正当なる委任を附託せられたる沿岸町村被害人民総代との間に熟議契約をなし、其正条に基き被害者に対して徳義上示談金を支出し、且つ明治二十六年七月より同二十九年六月三十日までを以て粉鉱採収器実効試験中の期限とし、其期間は契約人民に於て何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論、其他行政及司法の処分を請ふが如きことは一切為さざることを鉱業人と契約し、其の局を結びたり。」と、また「尚ほ鉱毒等より生じたる町村共有地の損害は第一に記載したる契約第五条に依り、更に明治二十六年七月より起算し、猶将来に付臨機の協議を遂げ別段の約定を為すか、若くは民法上自ら救済の途あるあれば之に依るの外なかるべ〔し。〕」(『大日本帝国議会誌』第四巻六六三頁)と答弁したが、これは先に政府が加害者、被害者の間に介入し、官権を以て示談を成立せしめた事実を証明したに留まり、一片の誠意さえ見られなかったから、再び被害民の激昻を買うことになった。時の農商務大臣は、下情に通じた物分りのいい榎本武揚であったが、こうした事態を日頃から非常に心痛していたので、期成同盟会の幹部であり、優れた農学者である親友津田仙の案内で、三月二十三日現地の視察を行い、聞きしに勝る惨状を知って、傷心を抱いて帰京した。

 翌二十四日は議会の最終日で、大隈外相の外交に関する重大な発言がある筈であったが、田中は許されて壇上に立ち、再度の質問演説を行った。言々句々、肺肝を刳り、列席議員を暗然とさせた。

 榎本農商務相が現地視察したその日、再び前回と同数の八百名ばかりの被害地民が大挙して上京する旨、栃木、群馬両県の警察本部から急報があり、同夜変装して桶川を越え、三々五々中仙道を南下し、二十四日夜芝口の事務所ならびに馬喰町の旅館に分宿した者の数はおよそ百名に達したと、三月二十六日号の『東京日日新聞』が伝えている。 三月二十四日付で発表せられた新設の足尾銅山鉱毒調査会の委員には、法制局長官神鞭知常以下十六名が任命された。彼らは直ちに現地に向い、詳細に調査を開始したが、田中らはこの気運を更に盛り上げるため、被害各地および東京市内の要所に演説会を催し、一般社会人の鉱毒に対する認識を深めることに努めた。しかるにいつとはなく、またどこからともなく、調査委員に多くを期待するのは無理であるという風評が流れ始めたため、五月十九日に至って、山田郡の四ヵ町村の総代数十名が、調査会委員長に陳情のため上京して来た。そして翌日、芝浦亭で在京中の有志をも交えて協議した結果、三班に分れて関係各大臣ならびに調査会委員達を歴訪し、陳情の上至急断乎たる解決を要求することにした。このうちの一木斎太郎を班長とする部隊は、先ず松方総理に面会を求めたが、ちょうど外出するところで用を果さず、踵を転じて大隈兼摂農商務相を訪問することにした。この時の模様を、大鹿卓はその小説『渡良瀬川』の中で、次のように劇的に描写している。

一同が例の外務省の海鼠壁へ差しかかると、ちやうど登庁する大隈の馬車に出会つた。大隈は物々しい警官の群と一木達の姿を見咎めて馬車を停めた。警官が護衛のつもりらしく馬車を取り囲んだ。

「なにを騒いで居るか」

馬車のなかから声がかかつた。

「いや、われわれが閣下に御面会しようと思つて来ると、この警官が理不尽にも拘引するといふのです。閣下からひとつ叱りつけてやつていただきたい」

機先を制してさういふ一木を先頭にして、皆が馬車の窓へ近づいた。言葉が言葉なので警官達も位置をかへた。大隈は彼等にむかつて、

「これはみんなうちの書生みたいな連中で、怪しい者ではない。むやみに拘引してはいかんよ」

警官達は張合ぬけした様子で、やがて各自に敬礼して立ち去つた。大隈がさういつたのも偽りではなかつた。彼は一木を見どころのある男として目をかけ、平常、壮士頭のやうにして出入りさせてゐた。大隈に面会することは予定にはなかつたが、一木は咄嗟に、平常の関係を利用して警官を追ひ払ふ策としたのであつた。

次に彼等は内務大臣官邸へ出かけた。樺山もやはり一木や稲垣を知つてゐたし、鉱毒問題についてもすでに数回面会を重ねてゐたから、この日も難なく面会が出来た。二両日中に何分の解決がある筈だから安心されたい」樺山はさういふだけで、勿論内容には触れなかつた。だが、彼等はなにか頼母しげなその言葉に力を得て官邸を辞した。 (二五二―二五三頁)

大鹿が何によってこのように書いたか不明であるが、もしこれが事実であるならば、大隈の半面を表した面白い挿話である。

 かくて同月二十七日、すなわち大隈・樺山に陳情後一週間もたたない日、東京鉱山監督署長南挺三は、古河市兵衛に対し「鉱毒排除命令」を下した。次にその要点を抜粋してみよう。

栃木県上都賀郡足尾銅山 鉱業主 古河市兵衛

鉱業条例第五十九条に依り左の事項を命令す

明治三十年五月二十七日 東京鉱山監督署長 南挺三

第一項 本山有木坑及小滝坑坑水は一切之を流出せしめず、総て選鉱用に供し、生石灰乳の攪拌法を行ひ、砂聚器を通過せしめたる後順次之を沈澱池及濾過池に導くべし、若し坑水の分量不時に増加したるときは、生石灰乳攪拌法を行ひ、別に掛樋を設けて直に沈澱池に導くべし。

第三十二項 前掲の工事は此の命令交付の日より起算し、左の期日内に竣工すべし。但し本山並に小滝沈澱池及濾過池竣工の時迄其選鉱業を停止す。

第三十七項 此命令書の事項に違背するときは直に鉱業を停止すべし。 (『古河市兵衛翁伝』 二三九―二四五頁)

 田中をはじめ協同親和会の連中は、この命令書を見て、これは「鉱毒防禦令」で、「鉱業停止令」ではない、我々が望むのは操業を停止せしめることにあるとし、政府の緩慢な措置にいたく憤慨した。そこで再び大隈重信に会見し、これを詰問し更に最善の方策を求めんと決議し、六月一日、彼らの代表津田仙、松村介石、一木斎太郎、栗原彦三郎ら八名は、早稲田の大隈邸を訪れたが、大隈の意見は、

わしは鉱毒被害の事実は十分に認めて居る。田中の主張もまた無理だとは思はぬ。しかし天下の学者とその道の専門家を集めて研究させた結果、確実に将来鉱毒を予防し得るといふ結論を得て居るのに、その結果も見ずに突然鉱業を停止するわけにはいかぬ。今度の予防命令はまつたくこれが為めである。予防工事をして、一年二年の後に猶その効力が無いとわかつた場合には、それはもちろん断然禁止する考へである。 (『渡良瀬川』 二五八頁)

というようなものであったと言われている。

 三十一年一月、田中は大磯の大隈別邸を訪れ、「大隈伯に一ケ年目にて面会、始末書を呈す。鉱毒談忽ち座上を破りて、大勢のために追ひ出さる。」と、その「日記」(木下尚江編『田中正造之生涯』一八六頁)に記している。のち党を離脱し、一匹狼として活動せんとしたのは、彼が主張する正義の戦いが党利党略に縛られては如何ともし難いのを、この時会得したからであろう。

 この年の九月三日、四日は二日続きの豪雨で、渡良瀬川の出水は忽ち沿岸地帯を泥沼と化し、更に足尾の改修工事にも拘らず、流出した鉱毒は農作物を全滅させた。九月二十五日総数一万人もの憤激した農民が蹶起し、南下するとの報が田中の仮宿に入った。田中は「此夜前二時半、左部彦二郎氏と芝口を発し、被害民進行地方に向て出張」(「日記」九月二十七日)した。千住で警察や憲兵に阻止された一隊は、総代五十名を選んで上京し農商務大臣に面会を求めることにした。田中の「日記」は、「九月三十日。総代五十人、農商務〔省〕に至る。大臣違約不逢。秘書拒絶。総代号泣すと。……左部氏、正造に云ふ、『足下万一間違へば、被害民に首を取られる。』と。答、『間違なし。』と。又曰く『やりそこね〔たら〕』『否そこねぬ。』と答ふ。」と記している(『田中正造之生涯』二一二頁)。

 田中の猛運動にも拘らず、当局は言を左右にして確約を与えず、事態は空転するのみであった。しかし、学苑の講師安部磯雄、岸本能武太が法律科学生武田三重郎他一名を連れ、三十二年末の冬季休暇に現地を巡回したように、黙黙と実地踏査を続けた学者もあった。武田は「足尾銅山鉱毒被害地の惨況に付て」という文を綴っているので、ここにその一部を転写しておこう。

足尾銅山の鉱毒渡良瀬河に流出して沿岸三十万の人民を苦しめ、六万町歩の沃野将に渺茫たる砂礫の裡に葬られんとすることは、既に志士仁人の絶叫して止まざる所にして、又屢々帝国議会の問題となりたることは夙に世人の知る所なり。予曩日故郷に在りて此の事を耳にしたり。然れども未だ之が実況を詳知せず。幸ひ咋冬の休暇を利用して本校講師安部磯雄、岸本能武太二氏、及友人一名都合四名の同行を以て約十日間竹杖草鞋足尾銅山より被害各地を跋渉し実地を踏査したるに、其惨其酷一として予想外ならざる無く、転た感慨の情に堪へざるもの夥多。予輩素より専門家にあらざれば茲に被害地の土壌を分析して鉱毒の成分を明にし、或は衛生上鉱毒は果して如何なる害を及ぼすや否哉は茲に之を説明する能はずと雖も、唯其耳に聞き目に映じたる概況を記して以て読者に訴ふる所あらんとす。〔以下、被害地域の概況、足尾銅山の現状、被害の実状を述べ〕凡そ鉱山として鉱毒の被害全く之れ無きは無し。然れども足尾銅山鉱毒の如く被害の惨且酷にして大なるもの未だ曾て世にあらざるなり。蓋し、近年足尾銅山鉱業の年を追ふて益々拡盛なるに伴なひ、硫酸瓦斯の毒烟は日を重ねて愈々山林の樹木を枯損し、加ふるに猶ほ薪炭需用の増加惹て森林濫伐の弊を生じ、遂に老樹欝葱枝を交へて昼尚ほ暗かりし水源付近の深山幽谷も、一枝伐られ一樹枯れ、四面禿緒として晩春花の飛ぶもの無く、早秋木葉の落る無し。満目荒涼一点の緑翠を止めず、水源涵養の道全く絶へ、時に微風徐うに吹くも忽にして土砂を揚ぐ。事態既に此の如し。故に、若し一朝沛然として雨降らば激流急下土砂倏ち崩落して渡良瀬川身を埋没し、濁浪滔々両岸を襲ふて堤塘到処決潰し、昔は霖雨久しく降り続かずんば洪水の患無く、偶ま之れあるも水源附近の飛花落葉は渡良瀬川に流出して浸水の田に肥料を留沈し、沿岸農民をして天与の恩沢に浴せしめたるもの、今や全く之に反し年として洪水の災厄に遭はざる無く、遇へば必ず土砂を持ち来り沃土を洗ひ去り、従て地質を変悪す。且つ濁浪多量の鉱毒を含有し、野となく家となく掀翻澎湃、衣服食料一として浸毒せざる無く、仮令ひ減水の後と雖ども、一たび浸水したる処は、田となく畑となく総て上層尺余畳々として鉱毒の沈澱したる毒泥を以て之を掩ひ、四顧茫々亦如何ともすべからざるの惨況を呈するに至る。現に去る廿九年九月の如きは、降雨僅に六時間にして早く既に渡良瀬川畔一面の毒海となり、水勢猛烈にして堤塘の決潰亦数十ケ所に及び、人畜を仆し家屋を奪ふ其数幾千なるを知らず。毒浪滔々慈親子を失ひ、妻は夫に別れ、悲嗚呼喚救を呼ぶの状実に見るに忍びざるものありしと。此の悽愴、彼の惨絶、聞くも凛として夏尚ほ寒きを覚ゆ。嗚呼、誰か之をしも尚ほ区々たる一地方の利害問題なりと云ふや。苟も目に一掬の涙あり身に一滴の血あるもの、豈感慨の情に堪へざらんや。況んや之が為に沿岸四百の村落は疲弊を重ね困憊を積み、自ら自治機関の活動を失ひ、道路修繕するもの無く、教育衛生亦之を奨励するもの無く、其他或は辛ふじて田畑の毒泥を排除して種子を蒔き付くるも、土地荒廃地味変悪して為めに木穀秀らず、秀づるも実らず、徒らに費用と労力を抛て一家糊口に迷ふものあり。或は止むなく一家離散、兄は北海に往き、妹は南海の客たるの悲況に涙濺ぐものあり。或は俄かに祖先伝来の田畑を失ひ、憂愁措く能はず、為めに病んで死に瀕するものあり。或は魚類野菜等の栄養物欠乏の為め、乳汁の出でざる女子あり。為めに小児の生育を害し、生死統計の上に一大変状を呈せるが如き悲且つ惨にして酷なるものあるに於てをや。現に栃木県安蘇郡久野村字下野田に於ける明治三十一年中百人に対する出生死亡の統計を見るに、出生者一人八分八厘にして、死亡八人六分三厘の実に驚くべき現象を呈せり。且つ夫れ渡良瀬川畔繁茂せる竹木は涸落枯損、盤根亦既に腐蝕して老幼の力尚ほ能く之を引き抜くことを得るが如き、更に被害の劇甚地に至りては、毒沙茫々一帯不毛の沙漠と化し、鳥飛んで下らず、蓬絶へ草枯れ、見るもの凛として覚へず肌に粟を生ず。嗚呼、誰か之を以て区々たる一地方の利害問題なりと云ふや。苟も一片義俠の心あるもの豈に往て之を救はざるべけんや。況んや足尾銅山に於て、既に鉱毒予防工事の竣成したる今日に当り渡良瀬川の水は尚ほ鉱毒の為に魚類の繁殖を妨げ、植物の栄養を害し飲料の用を奪ひ、殊に重大なる輸出生糸織物の産地たる桐生、足利地方に於ける生糸染色の天工を傷つくると聞き、加ふるに渡良瀬川治水工事未だ其緒に就かず、一朝雨降らば亦忽ち既往の惨況を呈するや明にして、被害地三十万の人民は戦々兢々薄氷を踏むが如く生命財産亦挙げて累卵の危きにあるに於てをや。被害の惨況酷にして大なる、既に右の如し。而も此の罪一として銅山鉱業の結果にあらざる莫しとすれば、又曩日政府当局者が工業条例を無視し鉱業の監督を怠りたる責ありと云ふ、敢て過言にあらざるなり。予輩敢て既往を咎めず。今にして輙ち銅山の鉱毒予防工事を十分完全ならしむるか、又は其鉱業を停止して一刻も速く之を救済するの方策を講ぜずんば、啻に三十万の人民を犠牲に供し、関東六十有余里の沃野を挙げて百年不毛の地たらしむるのみならず、立憲帝国の本旨を傷つくる亦幾何ぞ。国を憂へ民を想ふの士、豈に黙視するの時ならんや。須らく自ら実地を踏査し、以て之が救済の方策を案ぜずんばあるべからず。感極まりて之を誌す。

(『早稲田学報』明治三十三年一月発行第三五号 四五―四九頁)

 第三次上京請願運動が不成功に終った後も、現地ではしばしば会合が行われていた。いわゆる「川俣事件」が起る前日には、各総代が事務所に充てられた雲竜寺に集まり、第四次請願上京のことを協議していた。彼らは前年十一月までの人口調査で、鉱毒のため死亡したと考えられる数を千六十四名と推定し、この人数だけが上京することを定めた。これまで数千ないし万余に上った人数を、このように少数に絞ったのも、経費節減という必然から、そして犠牲者の弔い合戦という執念から割り出した数であろうが、今までにない冷静な一面を如実に見ることができる。

 三十三年二月十三日午前九時、雲竜寺の広場に集合した一行は、住職黒崎禅翁やその他四名から激励の言葉を受け、粛々として行進を始めた。途中館林警察署前を通過する時、殿をつとめた左部と山本栄四郎の二人は警察署の中に入り、前夜半雲竜寺内の事務所に押し入った署長不当立入りについて一言抗議しておいた。この時警官の抜刀騒ぎがあり、同志の川島為八が負傷したが、事後の処置は左部が交渉に当ることにして、一行は利根川の渡河地点である川俣に向った。しかしここでもまた警官の阻止に会い、更に数名の負傷者と十余名の逮捕者を出した。

 田中正造が一議員として被害者の代表たることを宣言し、憲政本党を脱党したのが十五日、室田忠七外五名の有力者が自宅から拘引されたのも同日、そして『毎日新聞』記者木下尚江(二十一年邦語法律科卒)が、社長島田三郎の命により、現地の鉱毒調査のため上野駅を出発したのも同夜であった。翌十六日、憲政本党代議士総会では、本校の市島謙吉から被害地視察談と、予防法実施の不備を指摘する意見開陳があって、調査会再設の建議案を議会に提出する決議があった。

 逮捕拘引者の数は連日増大し、遂に六十余名に達した。その中には、長年この運動を続けて来た鉱毒委員や、これを支援した村長、助役、地主なども含まれ、左部もまた収監された。事態は既に地方の問題ではなくなった。それには、現地に派遣された各社報道陣の健筆が大いに与って力があった。『毎日新聞』は十九日に木下尚江の「鉱毒飛沫」を掲げた。木下が鉱毒問題に取り組んだのはこの時が最初であった。これ以後、彼は『毎日新聞』を舞台にして、校友としては勿論のこと言論界にあって最も椽大の筆を揮って、鉱毒の惨状とその善後策を論じた。また、後述するように、鉱毒地救済婦人会を組織し、盛んに各種の救援演説会に登壇し、田中の政治闘争の後見的役割を果した。木下の反鉱毒運動はその廃娼・反戦運動とともに、校友の中で不滅の光を放っている。

 半年に亘る予審調査が終り、水谷予審判事の名で予審終結決定書が発表されたのは七月九日のことであった。「兇徒嘯聚の首魁としての重罪左部以下四名」をはじめとして、合計五十一名が前橋地方裁判所に送られ、荒川嘉衛以下十六名の被告は、証憑不十分のため予審免訴になった。

 前橋地方裁判所における「川俣事件」すなわち「兇徒嘯聚事件」の第一回公判は同年十月十日に始まったが、これに先立ち憲政本党は、市島謙吉の建議に基づき「鉱毒調査会再設置案」を提出せんとし、政府部内でもそうした動きが見られるようになったが、これとは別に民間有志達の間でも、再び調査に乗り出す運動が進められていた。すなわち、同年九月二十一日、谷干城、島田三郎、巌本善治、副島八十八、安部磯雄、花井卓蔵、原田赴城、松田順平、小崎弘道、留岡幸助、布川孫市、大村和吉郎、蔵原惟郭三宅雄二郎、丹羽清次郎、江原素六、富田鉄之助、西原清東、飯田宏作、山内吉郎兵衛、松村介石の二十一名が神田青年会館に会し、左の諸項を協定した。

一、本会を鉱毒調査有志会と称す。

一、本会は足尾鉱毒問題の真相を調査し、其救済方法を研究する事。

一、会員たらんとする者は、会員三名以上の紹介を得、本会の承認を経ること。

一、会の費用は寄付金を以て之に充つること。

一、調査委員を設くること。 (『田中正造之生涯』 二六二―二六三頁)

全員がこの協定に賛同し揃って会員になったのは勿論のことで、更にこの協定に基づき、「調査要項」を定めて、直ちに実行に移ることを申し合せた。本校講師安部磯雄三宅雄二郎がこれに列席し、進んで会員になっているのは当然で、殊更説明する必要はなかろう。

 さて前橋地裁第一審は前述の通り十月十日に開始され、爾後毎週三回開廷、合計五十一名に及ぶ被告に対する審査が行われ、十二月二十二日に結審判決という、異常なスピードを以て公判が進められた。これは勿論、判事、検事の協力によるものであるが、被告に対して同情を寄せ、無償で弁護の労をとり、公判の都度、東京から出張して熱弁を揮った弁護士花井卓蔵以下六十名に垂んとする各界人士の功績を忘れてはならない。なおこの中には、本校校長鳩山和夫や講師太田資時などもいて、弁護に当ったことも付け加えておく。

 十二月二十二日、判決があり、合計二十九名の有罪が決まり、残り二十二名が無罪で放免された。この判決を不服とした被告、検事双方は直ちに控訴したが、第一審の判決に驚愕した田中は、裁判の勝利と政府糾弾の輿論喚起のために、三十四年十月二十三日議員を辞退し、越えて十二月十日、意を決して直訴に及んでいる。すなわち第十六回通常議会開院式の時、天皇還幸の途上を擁して行ったもので、直訴文を高く掲げ鹵簿に駆け寄ったが、警護の近衛騎兵に阻まれて遂に目的を果すことができなかった。この椿事は逸速く都下各新聞が号外を以て報道したが、同月十二日号の『読売新聞』は、直訴文全文を掲載し、末尾には、「因に云ふ、右直奏文は田中氏の依頼に応じ、幸徳伝次郎(秋水)氏起草したるなりと。」と注を加えている。田中が如何に焦慮焦心していたかは、本文の最後の、「臣年六十一、而シテ老病日ニ迫ル、念フニ余命幾クモナシ、唯万一ノ報効ヲ期シテ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ、故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス。」の数言に言い尽されていよう。田中が一命を賭けて敢行し天下の耳目を聳動せしめたこの事件も、十四日には東京地検が清浦奎吾法相の内諾を得て不起訴処分に付した。十一日の『時事新報』が「由来不敬罪犯人の殆んど全部は狂者と称せられ」と記しているように、政府が田中を「狂者」扱いしたのであろう。

 ところで、前橋地裁における公判が始まり、控訴審に持ち込まれた三十三年末から三十四年にかけて、「鉱毒問題」を取り扱った演説が頻繁に開催された。特に三十四年十一月二十九日夜、神田基督教青年会館で催された時に起きた劇的な模様とその後日譚を、柳田泉は『日本革命の予言者木下尚江』の中で、こう記している。

矢島楫子の開会の辞につづいて、潮田〔千勢子〕、〔木下〕尚江、田村直臣、安部磯雄島田三郎という順序で演説して、聴衆に非常な感動を与えたのであったが、このとき最前列で良家の子女と見える若い女性が一心に弁士の演説の内容をメモしていたが、感に堪えかねてか、時々手で眼を掩うていた。尚江はそれをみて、感心な女性もあるものだと思っていたが、翌日の新聞をみて驚いた。この女性は、被害農民からいえば当の敵である古河市兵衛の夫人為子の侍女で、為子の命令でこの演説の内容をメモしていたのであった。侍女が帰って、メモをもとにして逐一為子に報告したところ、為子は眼をとじてためいきをつき、涙の潸々と流れるのを覚えないという有様であったが、その夜、というよりも翌日の暁方近く、神田川(神田橋近く)に身を投じて死んだのである。 (一六三頁)

 木下尚江は既に述べたように、『毎日新聞』特派員として現地に飛び、詳細にその惨状を見聞したから、誰よりも被害民に同情する念が強かった。彼は政治運動よりも、先ず被害民救済が第一であると考えた。そこでキリスト教婦人矯風会と諮って鉱毒地救済婦人会を組織し、矢島楫子や潮田千勢子らとともに、精力的に各地を回り募金運動を試み、また演説会を開いた。

 これとならんで、東京専門学校をはじめとする市内の学生による鉱毒救済運動も盛り上りを見せた。例えば学苑では、政学部学生菊地茂が、内田益三、高木来喜、佐藤千纒らと調査隊を組織し、精密な調査の結果を、三十四年の暮に東京で開催した惨状報告大演説会において市民に訴え、大きな反響を生んだのが、学苑に雄弁会を誕生させる契機となっている。なお菊地は、後年「学生の鉱毒救済運動」(『義人全集』第五巻所収)にその体験を記録している。

 一方控訴審に持ち込まれた「兇徒嘯聚事件」は、東京控訴院第四刑事部担当で、九月以降審理されたが、三十五年三月十五日に言い渡された判決は、有罪僅かに三名、大半は無罪で、青天白日の身となった。この裁判は更に大審院にまで持ち越され、同年五月検事側の主張を認め、東京控訴院の判決を全部破棄して、宮城控訴院に移送された。ところが、移送を受けた宮城控訴院では、検事の控訴申立書が自署でないとの弁護人の主張を認め、逆転判決となった。すなわち、十二月検事の公訴を棄却し、また被告人控訴も公訴不受理の判決となり、全員無罪となって一応この事件は解決したのである。しかし鉱毒問題は延々として後を引き、今日まで及んでいると言えよう。文字こそ変れ、同音の公害には今もなお渡良瀬川汚濁が含まれているのである。多数の鉱毒調査委員が任命されても、或いは流域関係県の衛生局が水質試験を繰り返し施行しても、抜本的対策を採らない限りは、永遠にこの問題は解決されないだろう。

 ところで、明治三十六年には『鉱毒ト人命』を自費出版までして、青春の情熱を鉱毒問題に注ぎ、殆ど半生をこの運動に捧げた我が校友左部彦次郎のその後の動静は、どうだったろう。彼の研究者である田村紀雄の「足尾鉱毒事件とその組織者」により、彼の晩年を点描して見よう。

左部彦次郎が谷中一村の犠牲において渡良瀬沿岸農村全部を救おうという政府の施策に、その合理主義故に便乗し、徹底した反政府思想の田中正造とたもとを別たねばならなくなる。これは歴史の不幸というよりも、大衆運動のダイナミズムがもつ残酷な一面である。……左部は個人的事情が動機となってその治水に対しても合理主義を貫くため栃木県土木部に就職、谷中村破壊の先鋒となるのである。個人的事情というのは、長い入獄生活や運動の結果、酒造業である家業が倒産、二児を残して妻を失い大きな悲しみにあえいでいるとき、運動地で一男をもつ未亡人と知り合い再婚した。この人生の傷みが四〇歳になんなんとしていた左部をして雲竜寺から立ち去らせたのであろう。それはまた谷中を除く渡良瀬沿岸農民が、鉱毒運動から一時的に退潮した時期でもあった。大場は「晩年の父は神奈川県平塚の一借家に、小官吏として薄給に甘んじ五十九歳で生涯を閉じている」(『残照の中で』)と書いた。 (『伝統と現代』昭和四十六年二月発行第二巻第二号 七八―七九頁)

この記事では、左部が晩年を送ったのは平塚となっているが、校友会名簿によると、大正十四年の住所は神奈川県厚木二、八九二番地、翌十五年(昭和元年)には二、六九一番地に移り、昭和二年十二月の同名簿では故人欄に載っているから、数え年五十九歳で厚木で死去したことになる。だが何れにしても、田村が言うように、このように行動力に溢れ、しかも冷静な計算に基づき大衆運動を組織化した指導力は、まさに刮目に値するが、これを無名の社会運動家として歴史が閑却しているのは、いかにも残念である。